官民一体となって、次世代のスタートアップ育成を強力に後押しするプログラム「ICTスタートアップリーグ」。その支援の一環として有識者と採択企業が直接議論を交わすバリューアップセッションでは、事業のブラッシュアップに向けた密度の濃いやり取りが繰り広げられた。本稿では、この熱気あふれるセッションに密着し、採択者がさらなる急成長を遂げていく軌跡を定点観測でお届けする。
弁護士や裁判にアクセスできる人は、日本ではわずか2割しかいない——。その残り8割が直面する「未払い」などの法的トラブルをテクノロジーで解決しているのが株式会社AtoJだ。そしてもう一社、コップ1杯の水を採取するだけで環境DNAを分析し、クマの出没やウイルスまで検知するのが株式会社フィッシュパスである。
独自の強みを持つこの2社が2026年6月30日、「ICTスタートアップリーグ」のバリューアップセッションに登壇。事業の現状と、次の一手に向けた戦略を語った。
本セッションの開始に先立ち、ICTスタートアップリーグの業務実施機関である株式会社みらいワークスの代表取締役社長・岡本祥治氏より、2026年度の伴走支援体制についての説明が行われた。2026年度からは、単なるアドバイザーにとどまらず、経営者とともに悩み、事業成長を実行支援する“共に戦うパートナー”として、「キャディ」と呼ばれる伴走者が新たに配置される。
株式会社みらいワークスの代表取締役社長・岡本祥治氏
有識者である運営会合メンバーや選考評価委員との間で、白熱した議論が繰り広げられた今回のセッション。まったく新しいテクノロジーやアプローチが、いかにして社会課題を解決し、巨大なビジネスチャンスを生み出そうとしているのか、その最前線をお届けする。
株式会社AtoJ 共同創業者・代表取締役CEO冨田信雄氏
最初に登壇したのは、日本版ODR(Online Dispute Resolution:オンライン紛争解決)プラットフォームを展開する株式会社AtoJだ。同社は、テクノロジーの力で「話し合い」によるトラブル解決の場を提供する法的スタートアップである。当日は共同創業者・代表取締役CEOで弁護士でもある冨田信雄氏が登壇し、同社の取り組みを紹介した。
日本の司法制度において、弁護士や裁判にアクセスできているのはわずか2割に過ぎないと言われている。残りの8割の人々は、トラブルに直面しても費用や手間の問題から法的救済を諦めてしまうという深刻な課題が存在する。株式会社AtoJは、この課題に対して、法務省の認証機関として中立公正な立場で調停を行うプラットフォームを提供している。
現在、同社が注力しているのは「養育費や売掛金などの未払い」問題だ。世の中には1兆円を超える未払い金が存在しているが、従来の回収業務は一方的な督促になりがちで、関係性の悪化や精神的負担が大きかった。
同社のサービスでは、名前、金額、連絡先を入力し、選択肢をタップするだけで、チャットルームでの「話し合い」を可能にする。第三者(プラットフォーム)が間に入ることで、当事者同士の気まずさを解消し、フラットな関係性のまま和解へと導く画期的なアプローチだ。
同社の成長スピードは目覚ましい。ICTスタートアップリーグ採択前は1,900件だった取扱件数が、支援期間中に3万5000件へと急増し、現在は4万件を突破している。導入企業は150社を超え、債権者に還元した金額は2億円以上、解決件数も1万件を超えている。
この爆発的な成長の裏には、前回のバリューアップセッションでの鋭いフィードバックが大きく貢献しているという。評価委員からの「債権を束(大量)で持っている企業にアプローチすべき」という助言を受け、同社は金融領域の開拓を推進。その結果、大手クレジットカード会社「ライフカード」での実証開始が決定し、毎月数万件の課題を抱える大規模な現場での稼働がスタートした。
さらに、相手方に手軽に通知を送れる新機能の研究開発にも成功。これにより、未払い発生後の通知から交渉までを一気通貫でカバーできるようになり、ある導入企業では「対話の場」で5年越し未払金を解決できたり、スタッフによる督促業務がなくなり心理的負担が減ったりという事例も多く聞かれている。
今年度は、さらなる規模拡大に向けてAIの研究開発に着手する。月間数十万件の取り扱いを見据え、当事者の悩みに寄り添う丁寧さを担保しつつ、カスタマーサポートを効率化するためにはAIの導入が不可欠だと判断したためだ。
また、今年度からはSaaS/AI、ITインフラなど様々な事業領域における新規事業立ち上げ・営業組織構築/変革の専門家が「キャディ(伴走者)」としてチームに加わる。キャデイは「未払い対応を事業者側の日常的な業務フローに組み込むプラットフォームとして、経営者、経理、現場それぞれに刺さる価値を整理し、プライシングと事業成長の仕組みを連動させていく」と今後の戦略と意気込みを語った。
小林寛幸氏(左上:選考評価委員)、名倉勝氏(右上:運営会合)、平英晴氏(左下:選考評価委員)、灰⽥俊也氏(右下:選考評価委員)
冨田氏によるプレゼンの後、有識者から事業拡大に伴うガバナンス(統治体制)強化の重要性が指摘された。プラットフォームの運営において、弁護士資格のない者が報酬目的で法的行為に介入する「非弁行為」とみなされないためのファイアウォール(法的な境界線)の構築など、組織が大きくなるにつれて参入障壁を高くする仕組みづくりが求められた。
また、「システムが社会インフラとして普及した際、必ず本物をかたった『偽物の通知メール』が現れる」という未来の懸念も提示された。これに対し、委員からは「誰もが知るわかりやすい商標(名称)をつけ、正しい事業者だけが使えるようにするブランド戦略や、国や自治体からの公式なお墨付き(クレデンシャル)を早期に得ることが不可欠だ」といったアドバイスが送られた。
株式会社フィッシュパス代表取締役 西村成弘氏
続いて登壇したのは、福井県に拠点を置く株式会社フィッシュパス代表取締役の西村成弘氏だ。同社は、水や空気などの環境サンプルから生物の痕跡を可視化する「環境DNA」技術をビジネスに応用するトップランナーである。
これまで未知だった自然環境や生物の生態を、数値化して可視化する「環境DNA」技術。同社は当初、この技術を漁業や山林の調査領域で活用していた。しかし、半年前のバリューアップセッションで有識者委員から「この技術、クマの検知に使えないのか?」という一言があり、事業の方向性が劇的に変わったという。
同社は即座にクマを検出する環境DNAを開発し、秋田県で実証実験を実施。これが「用水路をクマが泳いでいる」といった昨今の深刻な社会問題と見事にリンクし、メディアで大々的に取り上げられた。「散髪屋さんのおばさんに『この前テレビに出てましたね』と言われるくらいバズり散らした」と西村氏は笑いを交えて語る。
現在では、福島県での環境再生事業や、福岡市でのイノシシ対策など、自治体との連携が急速に拡大。さらに、大手企業との業務委託契約も締結され、着実な事業価値の向上を果たしている。
2026年度、フィッシュパスが目指すのは事業領域のさらなる飛躍だ。
一つ目は「公衆衛生領域」への展開である。某国立大学医学部からの問い合わせをきっかけに、野生動物を介して北上しているとみられる「感染症ウイルス」を環境DNAで検知するプロジェクトが進行中だ。伴走者からは、この技術がマダニなどが媒介する感染症対策にも応用できるとの補足があった。水からウイルスを事前に検知し、自治体にアラートを出してワクチンの準備を促すといった、「予防医療モデル」の構築を目指している。
二つ目は「空気からの環境DNA採取」技術の開発だ。北海道大学との共同研究により、静電気を利用して空気中の環境DNAを捕集する技術の実用化を進めている。これが完成すれば、水辺に限定されず、街中や店舗などあらゆる空間での高感度な生物・ウイルス検知が可能になるという。
可能性が広がる一方で、「散らばっている事業領域を整理し、推進する人材が不足している」という、ベンチャー特有の課題にも直面している。
そこでキャディとして伴走するのが、フランスやタイでのマネジメント経験を持ち、AI・ディープテック領域の実務に即した新規事業を推進する専門家だ。キャディは「広がった風呂敷を畳み、誰が何のリスクにいくらお金をかけるのか、社会的インパクトと収益性を天秤にかけて判断基準を作る」と宣言。現地のリアルな課題感を活かしたアジア展開の戦略立案や、地方特有の人材不足解消に向けた実務面でのサポートを行っていく方針だ。
牧野友衛氏(左上:選考評価委員)、佐々⽊喜徳氏(右上:運営会合)、高野秀敏氏(左下:選考評価委員)、垣貫真和氏(右下:運営会合)
委員からは、「補助金を活用する以上、単なるマーケティング展開だけでなく、検知結果をスマートフォンなどと連動させて住民に速報するシステムなど、より高度なテクノロジー開発そのものに投資すべき」という開発面での意見があがった。
さらに、ビジネスモデルについても「自治体や企業からの単発の調査請負で終わらせるのではなく、全国のデータを網羅的に取得し、その分析データをサブスクリプション化する『プラットフォームビジネス』へと昇華させるべきではないか」という提案がなされた。海外展開に関しても、「東南アジアで展開するなら、大規模発電所の周辺など、厳格な環境アセスメントが求められる領域をターゲットにすると良い」といった即戦力となるアイデアが寄せられた。
ICTスタートアップリーグ運営会合長 福田正氏
セッションの最後には、ICTスタートアップリーグ運営会合の会合長である福田正氏らが総括を行った。
福田氏は、「オープンな場で特許に関わる技術詳細を話してしまうリスクなど、ガバナンスへの配慮も含めて、我々支援側がしっかりと体制を整える必要がある」と述べ、スタートアップが安全に成長できる環境づくりの重要性を強調した。また、「成功しているスタートアップは、あえて無茶な要求をしてきて周囲を巻き込む力がある。もっと具体的に『誰を紹介してほしい』『このシステムを作りたいから人が欲しい』と、我々支援側を使い倒してほしい」という熱いエールも送られた。
社会の負の遺産である「未払い金」をテクノロジーでフラットな話し合いに変える株式会社AtoJと、見えない生物のリスクを可視化し公衆衛生の概念を変えようとする株式会社フィッシュパス。両社の取り組みは、全く異なるアプローチでありながら、いずれも私たちの社会をアップデートする可能性を秘めている。
ICTスタートアップリーグの伴走支援体制のもと、彼らが今後どのような進化を遂げるのか。彼らの動向に、引き続き注目していきたい。
■ICTスタートアップリーグ
総務省による「スタートアップ創出型萌芽的研究開発支援事業」を契機に2023年度からスタートした支援プログラムです。
ICTスタートアップリーグは4つの柱でスタートアップの支援を行います。
①研究開発費 / 伴走支援
最大2,000万円の研究開発費を補助金という形で提供されます。また、伴走支援ではリーグメンバーの選考に携わった選考評価委員は、選考後も寄り添い、成長を促進していく。選考評価委員が“絶対に採択したい”と評価した企業については、事業計画に対するアドバイスや成長機会の提供などを評価委員自身が継続的に支援する、まさに“推し活”的な支援体制が構築されています。
②発掘・育成
リーグメンバーの事業成長を促す学びや出会いの場を提供していきます。
また、これから起業を目指す人の発掘も展開し、裾野の拡大を目指します。
③競争&共創
スポーツリーグのようなポジティブな競争の場となっており、スタートアップはともに学び、切磋琢磨しあうなかで、本当に必要とする分の資金(最大2,000万円)を勝ち取っていく仕組みになっています。また選考評価委員によるセッションなど様々な機会を通じてリーグメンバー同士がコラボレーションして事業を拡大していく共創の場も提供しています。
④発信
リーグメンバーの取り組みをメディアと連携して発信します!事業を多くの人に知ってもらうことで、新たなマッチングとチャンスの場が広がることを目指します。
■関連するWEBサイト
ICTスタートアップリーグ
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株式会社AtoJ(公式サイト)
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株式会社AtoJ(LEAGUE MEMBER)
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株式会社フィッシュパス(公式サイト)
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株式会社フィッシュパス(LEAGUE MEMBER)