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現代の医学の「ブラックボックス」に、AIで光を当てる。AI×時系列データで挑む、妊産婦医療の次世代スタンダード【2025年度ICTスタートアップリーグメンバーインタビュー:株式会社nonat】

妊娠中の母体や胎児の状態は、専門医であっても把握・予測が困難な「ブラックボックス」と称される。その理由のひとつは、既存の電子カルテなどの情報は、数週間に一度の受診という「点」の記録に過ぎないという事情にある。産婦人科医として「世界最貧国」での医療現場などを経験してきた株式会社nonat代表取締役の伊藤敬佑氏は、この課題に対し「AI×時系列データ」というアプローチで挑んでいる。人間には測定や解釈が難しい膨大な生データを解析し、「点」を「線」に変えることで、国境や医療リソースの壁を超えようとする医師たちの挑戦を追った。

臨床研究現場:臨床研究同意書を説明する伊藤代表臨床研究現場:臨床研究同意書を説明する伊藤代表

妊産婦死亡率500倍の現実。「世界で最も寿命が短い国」で感じた、国境なき命の重み

伊藤さんは産婦人科医として国内で勤務後、2021年にイギリスで公衆衛生を学ばれたと伺いました。世界中に新型コロナウイルス感染症が蔓延している最中でしたが、その選択にはどのような背景があったのですか。

伊藤:私は小さいころから「医学を活かして海外に挑戦したい」という思いがありました。世界共通の課題である公衆衛生(パブリックヘルス)を学ぶことは、海外志向を持つ医師にとって有力な選択肢のひとつです。コロナ禍という特殊な状況下ではありましたが、パンデミックに背中を押されたというよりは、以前からの計画を実行に移したという側面が強いです。

公衆衛生を学ばれた後、シエラレオネ共和国で産婦人科医として活動をされたのですよね。

伊藤:イギリスにいる際に、ご縁あってお声掛けいただいたのがきっかけです。シエラレオネ共和国は西アフリカにある世界最貧国の一つで、「世界で最も寿命が短い国」ともいわれています。食料不足や内戦による基盤インフラの崩壊、不十分な医療体制など、日本とは全く環境が異なる国です。感染症も多く、ある統計データでは、乳幼児の死亡率が世界1位、妊産婦の死亡率は日本の約500倍などとされています。

500倍……。衝撃的な数字です。

伊藤:私は産婦人科医として、シエラレオネで3か月ほどお産を取り上げたり、帝王切開などの手術を行ったりしていました。医師として現地の方々に向き合っていると、日本では見かけない疾患や、お母さんや赤ちゃんが命を落とすケースを多く目にします。妊産婦や乳幼児の家族や親戚を数人亡くしている方も、周りに少なくありませんでした。

シエラレオネ共和国と、その後のコンゴ共和国でも「妊婦を対象としたデジタルヘルスプロジェクト」に参加されていたとのことですが。

伊藤:プロジェクトでは、首都から車で数時間かかる田舎の村へ出向き、病院での受診が難しい妊婦さんの健診やヒアリングを行うなど、医療行為に加えフィールドワークの要素も持った活動をしていました。 コンゴに本拠地を置く企業が開発した専用デバイスを使って、妊娠22週から出生後7日未満までの「周産期」の状態をデータで把握し、お母さんと赤ちゃんの命に関わる異変がないかをチェックし、同時にデバイスの使用感や改善点も日々検証していました。「現地の課題を解決するには、どんな医療介入が必要か」を現場目線で深掘りし、チームで意見を出し合ったりしていましたね。

シエラレオネ、コンゴでの現状を目にして、どのように感じられましたか。

伊藤:シエラレオネをはじめとする世界最貧国では、「死」が日常のすぐ隣にあります。自分の愛する子どもが幼くして息を引き取ることも、彼らにとっては珍しい話ではありません。正直に言えば、渡航する前は「これほど死が頻発する環境なら、人々はある種『死』に慣れてしまっているのではないか」と想像していた部分もありました。しかし、現実は全く違いました。どれほど悲劇が日常化してしまっていても、幼い我が子を失った母親の悲しみや辛さが軽くなることはありません。その悲しみの深さは、どんな環境下であっても変わらない、人類普遍のものだと現場で痛烈に思い知らされましたし、厳しい医療環境においても最善を尽くすことの大切さを改めて認識しました。 その後は、医療環境が原因で失われてしまった「助かるはずの命を助ける」ためにはどうすればよいのか、何ができるのかと、医師としてまた一人の人間として、思考を巡らせる日々でした。生まれた場所で医療に差があってはならない、そう強く思う反面、物理的な距離やリソース不足という壁の前では、一人の医師ができることに限界も感じていました。

現状課題:現状の妊婦健診ではブラックボックス化した院外の妊娠状態を適切に捉えることはできず、不十分な治療介入につながっていた。現状課題:現状の妊婦健診ではブラックボックス化した院外の妊娠状態を適切に捉えることはできず、不十分な治療介入につながっていた。

AI×時系列データで、妊娠状態という「ブラックボックス」を解き明かす

その時の思いが、AI技術を活用して妊娠状態を客観的に把握するという、第一弾の妊婦基盤モデルのシステム開発につながっているのですね。

伊藤: WHO(世界保健機関)の報告では、世界の早産や死産、新生児死亡の率は依然として高い水準にあります。現代医学においていまなお、早産や死産は症例として明確に定義することも難しい、謎の多い領域として残されています。

そこで、急速に普及し始めていたAI技術に改めて着目しました。膨大なデータを処理・解析する中から、人間に測定できない徴候の発見など、今の医療が抱える限界を突破する成果が生まれる可能性があるのではないかと思ったのです。

医師としてキャリアを重ねていくのではなく、起業家として全く新しい挑戦をするのに躊躇はなかったですか。

伊藤:迷いがなかったと言えば嘘になりますが、背中を力強く押してくれたのが、共同創業者である髙崎さんと髙野さんでした。 髙野さんは岩手県の研修医時代の上司で、私に「海外で公衆衛生を学ぶ」というルートを指南してくれた、海外キャリアの師です。髙崎さんはイギリス留学中、ロンドンのパブで開催されたソーシャルギャザリング(交流会)の場で出会い、私の描く理想を実現するための選択肢として「起業」という道を提示してくれました。二人とも医師でありながら、私の人生のターニングポイントで導いてくれた恩師です。今でも彼らの支えがあるからこそ、走り続けることができています。

現在は第一弾の妊婦基盤モデルとして早産・死産・新生児死亡の改善を目指すシステムを開発中とのことですが、これはどういったものなのでしょうか。

伊藤:妊娠中の身体は非常に複雑で、医師の間で「ブラックボックス」と称されるほど、母体や胎児の様子を正確に把握し、予測することは困難です。かつ、既存の電子カルテなどの情報は、数週間や数ヶ月に一度の受診時に取得した「点」(スナップショット)の記録に過ぎません。これまでは、そういった「点」のデータをもとに、医師が妊産婦の状態を判断してきました。しかし私たちは、この点の間隔を限界まで短くし、妊産婦の身体の状態を連続的な「時系列データ」として可視化することを目指しています。医療分野では現在、このような連続的な生体データとIT機器やAIをかけ合わせた統計学的アプローチが進化を続けており、私たちも「次世代の医療」のあり方を示すような使命感で取り組んでいます。

受診時だけではない「時系列データ」で可視化することで、これまでよりも明確に妊娠状態が把握できる、ということですね。

伊藤:はい。早産・死産・新生児死亡の原因は、胎児や母体の異常、妊娠中の合併症、胎盤や臍帯の問題など多岐にわたりますが、突発的なものや、原因不明な事象もあります。母子保健には「Three Delay Model」と呼ばれる母体死亡に繋がる原因が掲げられていて、First delay(第1の遅れ)は「病院に行くというDecision(決断)の遅れ」、Second delay(第2の遅れ)は「移動手段や交通インフラの不備による遅れ」、Third delay(第3の遅れ)は「病院に到着後の対応スピード、医療の質による遅れ」です。マタニティヘルスに対する考え方はさまざまですが、こういった遅れが原因となって母体や胎児に危険が及ぶ前に、なるべく早期に異常を察知し、対応することが非常に重要だと考えています。

nonatのシステムを、どのような形で使用、普及させていく予定ですか。

伊藤:大きく分けて2つの手段があると考えています。一つは、開発したアルゴリズムを搭載した、遠隔モニタリングする医療デバイスを開発して流通させることです。ただ医療機器となると行政のガイドラインのクリアや体制作りなど数年単位の時間がかかるので、もう一つの切り口として、健康管理などの非医療デバイスを開発し、スピード感を持って世に出すかたちも構想しています。

第一弾の基盤モデルは妊産婦が対象とのことですが、その後はターゲットの拡大も考えられているのでしょうか。

伊藤:はい。まずは「妊産婦」向けのモデルからスタートしますが、長期的には不妊治療や更年期障害、思春期の悩みなど、女性の生涯にわたる課題を包括的にサポートすることを目指すプラットフォームを想定しています。 提供方法についても、医療機関を経由すべきか、ユーザーに直接届けるべきか、国や地域の医療事情に合わせて最適な形を柔軟に選んでいきたいと考えています。

技術背景:人間には認知できない妊婦の微小な生体データの変化から、妊娠状態を客観的・連続的に捉える妊婦AI基盤モデル技術背景:人間には認知できない妊婦の微小な生体データの変化から、妊娠状態を客観的・連続的に捉える妊婦AI基盤モデル

今年の10月に「Mikazuki(ミカヅキ)」という研究開発用のモバイル計測プラットフォームをリリースされましたが、研究中の妊産婦向けの基盤モデルと、「Mikazuki」は、何か関連があるのでしょうか。

伊藤:「Mikazuki」はもともと、自社の研究開発を進める上で「適切なデバイスがない」という壁にぶつかり、それを乗り越えるために作ったものです。 AIにとっては、人間が切り捨ててしまうような細かなデータやノイズこそが重要です。しかし電子カルテや医療機器から取得される医療データは、人間用にそれをきれいに加工して提供しています。これでは我々がやりたいAI研究はできません。

また、特殊な研究用デバイスは確かに存在しますが、それらのほとんどは個別のソフトウェアや大型の機材が必要なことが多く、スペースの限られた臨床現場での測定には不向きなことがほとんどでした。

それなら、患者様のベッドサイドで、研究者が本当に欲しい「生データ」をスマホ一つで「簡単」に取れるものを自分たちで作ろう、と。

現在は自社だけでなく、データ収集に悩む多くのAI研究者や企業に使っていただけるよう、個別のニーズにカスタムした研究開発支援サービスとして本格稼働しています。

MIKAZUKIの概要:「未加工データ」を「簡単」に「個別ニーズ」に合わせて提供する研究開発支援サービスMIKAZUKIの概要:「未加工データ」を「簡単」に「個別ニーズ」に合わせて提供する研究開発支援サービス

手遅れになる前に介入し、「助かるはずの命が助かる」世界を実現させたい

創業のきっかけは海外での気づきだったかと思います。やはり将来的には海外進出を視野に入れられているのですか。

伊藤:はい。創業時からグローバル展開を前提に考えています。私たちが第一弾の妊婦基盤モデルで挑んでいる早産・死産というテーマも、特定の国だけの問題ではなく、地球規模の課題です。 アフリカの医療現場で感じた課題感が根底にあるため、開発においても、特定の国や人種に依存しない、生物学的に普遍性のあるアルゴリズムを組むことを強く意識しています。

改めて、nonatが目指す未来について教えてください。

伊藤:私の原点は、アフリカで見た「本来なら助かるはずの命が、環境のせいで失われてしまう」という現実です。だからこそ目指す未来は、「助かるはずの命が助かる世界」。これに尽きます。 しかし社会にはまだ、医療の手が届いていない患者さんや、気づかれていないニーズが無数にあります。そこにどう介入していくか、考えなければいけない課題は尽きません。ですが、まずは「手遅れになる前に介入する」ことで、救える命を確実に救おうとすることに重点を置き、一つひとつ課題を解決していきたいと思っています。

ICTに参加されてみていかがですか。

伊藤:資金面でのサポートはもちろんありがたいのですが、それ以上に得難い財産となったのが、同じマインドを持つ「同志」たちとの出会いです。 セッションを通じて、私たちと同じフェーズで戦う仲間や一歩先を行く先輩起業家と交流する中で、分野は違えど、知財戦略など抱える悩みが驚くほど共通していることに気づかされました。孤独な戦いになりがちなスタートアップにおいて、互いに課題を共有し、学び合える場を得られたことが、本リーグに参加した最大の価値だと感じています。

編集後記
「創業時から世界しか見ていない」。その言葉に一点の曇りもないのは、彼らが対峙している死産・早産という課題が、人種や国境に関係なく存在する普遍的なものだからだろう。印象的だったのは「AIにとっては、人間が捨てるノイズこそが重要」という視点だ。人間が見やすいように加工されたデータではなく、膨大な「生データ」にこそ真実が隠されている。そのためのプラットフォーム『Mikazuki』まで自社で作ってしまう実行力と徹底ぶりに驚かされた。現場を知る医師チームだからこその強さを垣間見た気がする。

■ICTスタートアップリーグ
総務省による「スタートアップ創出型萌芽的研究開発支援事業」を契機に2023年度からスタートした支援プログラムです。
ICTスタートアップリーグは4つの柱でスタートアップの支援を行います。
①研究開発費 / 伴走支援
最大2,000万円の研究開発費を補助金という形で提供されます。また、伴走支援ではリーグメンバーの選考に携わった選考評価委員は、選考後も寄り添い、成長を促進していく。選考評価委員が“絶対に採択したい”と評価した企業については、事業計画に対するアドバイスや成長機会の提供などを評価委員自身が継続的に支援する、まさに“推し活”的な支援体制が構築されています。
②発掘・育成
リーグメンバーの事業成長を促す学びや出会いの場を提供していきます。
また、これから起業を目指す人の発掘も展開し、裾野の拡大を目指します。
③競争&共創
スポーツリーグのようなポジティブな競争の場となっており、スタートアップはともに学び、切磋琢磨しあうなかで、本当に必要とする分の資金(最大2,000万円)を勝ち取っていく仕組みになっています。また選考評価委員によるセッションなど様々な機会を通じてリーグメンバー同士がコラボレーションして事業を拡大していく共創の場も提供しています。
④発信
リーグメンバーの取り組みをメディアと連携して発信します!事業を多くの人に知ってもらうことで、新たなマッチングとチャンスの場が広がることを目指します。

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