犬や猫などペットの平均寿命は、室内飼いの増加や栄養バランスのとれたペットフードの開発、そして獣医療の発達とともに近年飛躍的に伸びている。しかしそんな進歩の裏で、深刻な課題が浮き彫りとなってきた。それは統一的な献血・輸血インフラが存在していないということだ。血液不足によって、救えたかもしれない命が失われていく厳しい現状に対し、ICTの力で新たな「犬猫用の血液のインフラ」を構築しようとしているのが、株式会社Vanishing Companyの代表・土岐沙也香氏である。
地元・福岡の新聞社で10年間、記者として社会の機微を見つめてきた同氏は、動物福祉ビジネスをライフワークとするため、30代で「退路を断ち」、未経験のエンジニアの道へ。自らの愛犬が死に直面した体験を糧に、動物病院と供血ドナーを繋ぐマッチングプラットフォーム「Blut(ブルート)」を立ち上げた。アプリ開発を起点に、日本の動物福祉と獣医療インフラを根底から作り変える挑戦に迫る。
講演会での様子まず、Vanishing Companyを立ち上げるまでの経歴を詳しく教えてください。土岐さんは元々、福岡で新聞記者をされていたそうですね。
土岐:地元の新聞社に約10年間勤務していました。会社員として働く一方で、もう一つのライフワークがありました。それが、小学生の頃から続けていた犬や猫の保護活動です。
20年ほど前、私が子どもだった頃は、野良犬や野良猫が身近にいるのが当たり前でしたが、そうした犬猫たちを個人で保護し、自宅に連れ帰っては病院で手当てをし、元気になったら里親さんを探す。シェルター(保護センター)のような大きな施設を構えていたわけではありませんが、個人の手の届く範囲で一頭一頭と向き合う活動を、幼い頃から続けてきました。会社員として収入を得られるようになってからは、保護団体への寄付や、シェルターの掃除ボランティアなどにも足を運んでいましたね。
長年、ボランティアとして現場を見続けてきた中で、なぜ「起業」という道を選んだのでしょうか。
土岐:殺処分は統計上減少傾向にあるものの、令和に入っても、ゼロになっていません。現場を見ると、どこのシェルターも常に満杯で、関係者の方々が心身を削って頑張っている。それなのに、なかなか好転しない状況をそばで見ていて、動物たちのために人生を捧げてでも「殺処分問題」を解決しなくてはと思うようになりました。
30代に入った頃、自分を追い込む形で新聞社を退職。そこから何をするか考えた時、行き着いた答えが「IT」でした。殺処分の文化を根本から変えるには、今の世の中で誰もが手にしているスマートフォンを通じて、人々の生活に自然に溶け込み、訴えかける形が必要だと漠然と思ったんです。そこで「動物のためのアプリ」を作ろうと思い立ち、全くの未経験でしたが、プログラミングスクールに通うことを決意しました。無鉄砲な計画でしたが、見切り発車でも、ITの世界に足を踏み入れてよかったなと、今振り返ると思います。
ドナーとドッグランで遊ぶ様子土岐さんが解決しようとしている「殺処分」の問題について、改めて詳しく教えてください。なぜ、どれだけ努力しても殺処分が無くならないのでしょうか。
土岐:いわゆる「保健所」(殺処分を担当する行政機関)の担当者たちも決して動物の処分を望んでいるわけではありません。彼らは殺処分を避けるために、一つの保健所につき20ほどの保護団体と提携し、持ち込まれた子たちを引き取ってもらえないか日々打診しています。
特に救うのが難しいのは、交通事故に遭い助かる見込みが薄い犬猫や、自力で排泄ができず数時間おきの介助を必要としたり、数時間おきにミルクをあげなければならない子猫などです。こういった施設で24時間365日、犬猫のお世話をするのは難しいですし、人手不足の中で手厚いケアを継続することは現実的に不可能です。
なるほど。受け皿となる保護団体のシェルターも常に満杯の状態で、必死に里親を探しても次から次へと新しい犬猫が持ち込まれる状態が続いているのですね。
土岐:その通りです。さらに根深いのは、犬猫に対する考え方の違いです。日本では未だに「犬は番犬として外で飼うのが当たり前」「猫は家も外も自由に行き来」「飼えなくなったら処分する」という感覚を持つ方が少なくありません。一方で動物福祉を学んでいる方は「動物と共生できる方法があるのでは」と考えるため、この文化的なギャップが問題の解決を難しくしています。
Blutについてイベントで語る様子未経験からエンジニアになるのは相当な苦労があったと思いますが、どのような環境で学ばれたのですか。
土岐:非常に厳しいことで有名なプログラミングスクールに入りました。私は自分に甘いところがある自覚があったので、あえて過酷な環境を選んだんです。そこでは1週間に2つの課題が課され、アプリを形にできないと卒業不可という、スパルタ式の1年間で毎日、必死にコードを書きました。徹夜でコードを書くことも日常茶飯事でしたね。脱落していく人も多い中、やり遂げられたのは、これまで続けてきた柔道のおかげかもしれません。私は身長が172センチと体格に恵まれたこともあり、小学校から現在まで柔道を続けています。人生で一番苦しかったのは中学時代の柔道部の稽古で、当時のことを振り返ると大抵のことは「このくらいで負けてたまるか」と感じます。この「体力」と「負けず嫌いな性格」が、開発の苦しみや起業の困難に立ち向かう原動力になっています。
そのパワーは、保護活動の現場でも活かされていたそうですね。
土岐:そうなんです(笑)。保護活動のボランティアは女性が多いのですが、里親に保護犬・猫を引き渡す譲渡会のイベントではテントを張ったり重いケージを運んだりと、実は力仕事が山積みです。会場設営のときに「今日、力仕事があるんだけど来られる?」と呼ばれれば、喜んで飛んでいきました。新聞記者としてのシフト勤務の間を縫って、毎週のようにシェルターの掃除や搬入作業を手伝っていた経験も、今の事業を支えていると思います。
Vanishing Company主催のイベントにてドナーと共に2022年にVanishing Companyを創業されましたが、当初から現在の「Blut」の構想があったのでしょうか。
土岐:いえ、最初はもっと漠然とした「IT×動物」といったコンセプトで、「飼い主検定」というクイズ形式で動物の知識を深めるアプリなどを作っていました。今振り返れば、ビジネスと呼ぶにはまだ拙く、起業の知識もマネタイズの視点も不足していた期間でしたね。
転機となったのは、創業から1年ほど経った頃、私の愛犬が輸血を必要とする事態に陥ったことです。病院に駆け込むと、先生から「病院には血がありません」と言われました。「自分で血液の適合するワンちゃんを2日以内に3頭連れてきてください。見つからなければ、この子は死にます」と。
それは実に過酷な宣告ですね。
土岐:絶望しました。必死で周囲を当たりましたが、猶予はたったの2日。SNSで呼びかけるにしても、見ず知らずの人に採血のリスクをお願いするのはハードルが高かったですね。
調べてみると、これは私の愛犬のかかりつけ病院だけではなく、日本中のほとんどの動物病院が抱えている課題でした。さらに、仲の良い獣医さんと食事をしていた時に「本当に血がなくて困っている。ITの力でどうにかならないか」と真剣に相談を受けたんです。自分の実体験と、現場のプロの悲鳴が重なり、これこそが私がやるべき事業だと確信しました。そこから弁護士を交えたリーガルチェックや、獣医師の監修を受けながら、「Blut」の開発がスタートしたのです。
「Blut」のシステムイメージそのような出来事をきっかけに、殺処分問題という大きなテーマのなかの「輸血問題」という社会課題を発見し、これに注力しようと決められたのですね。では、「Blut」の具体的なサービス内容について教えてください。
土岐:「Blut」は、血液を必要とする動物病院と、事前に登録されたドナー(供血犬猫)をマッチングするプラットフォームです。
最大の特徴は、「飼い主同士を接触させない」という仕組みです。現状、SNSなどで飼い主同士が血を探し合う光景が見られますが、これはしばしばトラブルにつながります。謝礼をめぐる揉め事や、万が一輸血後に容態が悪化した際にドナー側が責められたり訴訟沙汰になったりするようなリスクが絶えないからです。Blutはあくまで「病院」と「ドナー」をつなぐ形を取り、プロである獣医師を介在させることで、このリスクに対処しています。
ドナーの登録基準も厳しいと伺いました。
土岐:はい。以前はアプリ上で広く登録を募っていましたが、現在は私が直接、ドッグランイベントなどの現場に行き、飼い主さんと対話して登録を進めています。採血にはリスクが伴いますし、ワンちゃんの性格によっては鎮静が必要になることもあります。それらを全て正しく理解していただけるよう、お一人お一人にご説明し、ご納得いただいた方のみドナーとして登録させていただく方式にしています。
また、医学的なスクリーニングも徹底しています。感染症の有無はもちろん、心臓への負担を考慮してBNP検査(心臓にどのくらい負荷がかかっているか調べる検査)を必須にしています。私自身が採血現場に同行し、ドナー候補の犬猫が震えていないか、パニックに陥っていないか、知らない病院でも落ち着いていられるか、舌の色は正常かといった様子を自分の目で確認し、本当に健康で適性のある子だけをドナーとして認定しています。
土岐さんが展開している「Blut」の収益モデルと現在の導入実績を教えてください。
土岐:ドナーとのマッチングサービスを利用いただいている動物病院から月額の契約料をいただいています。具体的な実績としては、2025年現在、拠点である福岡県内において3軒の動物病院と有料サービスの契約を結んでおり、登録ドナー数は犬猫合わせて約200頭にまで広がりました。この福岡での成果を土台として、現在は関東圏への本格的な進出を急ピッチで進めているところです。非常に大きな進展として、東京大学附属動物医療センターとの契約が締結され、2026年1月からの運用開始が決定しました。
近年の世界的な「動物実験廃止の潮流」が「Blut」の事業にはどう作用していますか?
土岐:“追い風”かどうかはわかりませんが、この潮流と「Blut」の方向性は合致していると思います。これまで、多くの大学病院や大規模な動物医療センターでは、緊急時の輸血用血液を確保するために、病院内で「供血犬」や「供血猫」という、血を分けるための動物たちを飼育・維持してきましたが、現在は動物福祉の観点から「ただ血を抜く目的だけで動物を拘束し続けるのは倫理的に許容されない」という考え方が世界的に主流になっています。
これを受けて、自前で血液を確保する手段を廃する決断をとった大病院にとって、外部の信頼できるドナーを迅速かつ安全に見つけ出せる「Blut」の仕組みは、高度な動物医療を継続していただくための一助になれると確信しています。
今回、ICTスタートアップリーグに採択されましたが、参加してみていかがでしたか。
土岐:実は昨年も応募し、採択されなかったことが本当に悔しくて……。負けず嫌いなので、今回はリベンジの気持ちで挑みました。結果、採択いただけて本当に感謝していますし、事務局の方々の細やかなサポートには助けられています。
特に大きかったのは、運営責任者の福田さんによるメンタリングです。事業の甘い部分を、ズバッと厳しい言葉で突いていただきました。
どのようなアドバイスが印象に残っていますか。
土岐:リーガル面でも貴重な助言をいただきましたし、競合戦略についても「競合になりそうな相手と闘うのではなく、仲間になって一緒に大きくしていく方法が良い」といった、自分一人では思いつかなかった視点をいただきました。スタートアップは創業初期に「競合調査」「優位性」に頭をひねる方が多いと思いますが、競合と一緒に成長していくという考え方は本当に素晴らしいと感じました。福田さんとの対話を通じて、Blutは単なる「マッチングアプリ」から、業界全体の“インフラ”を目指すステージへと引き上げられた気がしています。
「Blut」チラシ最後に、今後のビジネスとしての展望と、社会に与えたい影響について教えてください。
土岐:「輸血ができずに亡くなる子をゼロにする」こと。これがBlutの絶対的なゴールです。福岡県、関東を中心に今後Blutを全国に広げていきます。目標としては、まずは全国で稼働している約10,000の動物病院の1割にあたる、約1,000施設の動物病院にBlutを導入いただくことを掲げています。
ドナー数も理想を高くかかげ、ドナーになれる1才から7才の犬猫のうち、約2割を目指したいと思っています。現在、日本で飼育されている犬は680万頭、猫は950万頭いると言われているので、その2割、300万頭以上が目標になりますね。
ドナーさんには年1回ドナー検診で人間ドックレベルの検査を無料で受けていただいており、混合ワクチンの接種も無料で付帯されています。血液を提供してもらう代わりにその子たちの健康を守っていく、というのがBlutのシステムです。ドナーさんへのケアを手厚くすることで、日本のすべての犬猫が「ドナーになりたい」と思ってもらえたらいいなと思います。それが結果として「健康な個体を増やすこと」「動物との共存」に繋がるからです。無理な交配によって先天性の疾患を抱えてしまっている子たちを減らしていくことも弊社の使命だと思っています。
Vanishing Companyという社名は、直訳すると「消滅する会社」です。きっと怖いイメージを持たれる方が多いかと思いますが「当たり前に動物を大切にできる世の中になったら消滅する会社」でありたいと思っています。ITの力で、動物たちが当たり前に、健康に、生涯を全うできる社会を作ることが、私たちの使命です。
編集後記
取材中、土岐氏が愛犬の輸血を巡るエピソードを語る際に見せた表情。それは、同じ苦しみを持つ全ての飼い主が共感するところだ。動物・ペット業界は、さまざまな立場の事業者や一般の飼い主が集積する非常に複雑な世界であり、「泥臭い現場」と「最先端のICT」。その両方を等身大で体現する土岐氏の挑戦は、まだ始まったばかり。しかし、彼女が築く「血液のネットワーク」は、間違いなく日本の動物福祉の未来を明るく照らす光になるだろう。
■ICTスタートアップリーグ
総務省による「スタートアップ創出型萌芽的研究開発支援事業」を契機に2023年度からスタートした支援プログラムです。
ICTスタートアップリーグは4つの柱でスタートアップの支援を行います。
①研究開発費 / 伴走支援
最大2,000万円の研究開発費を補助金という形で提供されます。また、伴走支援ではリーグメンバーの選考に携わった選考評価委員は、選考後も寄り添い、成長を促進していく。選考評価委員が“絶対に採択したい”と評価した企業については、事業計画に対するアドバイスや成長機会の提供などを評価委員自身が継続的に支援する、まさに“推し活”的な支援体制が構築されています。
②発掘・育成
リーグメンバーの事業成長を促す学びや出会いの場を提供していきます。
また、これから起業を目指す人の発掘も展開し、裾野の拡大を目指します。
③競争&共創
スポーツリーグのようなポジティブな競争の場となっており、スタートアップはともに学び、切磋琢磨しあうなかで、本当に必要とする分の資金(最大2,000万円)を勝ち取っていく仕組みになっています。また選考評価委員によるセッションなど様々な機会を通じてリーグメンバー同士がコラボレーションして事業を拡大していく共創の場も提供しています。
④発信
リーグメンバーの取り組みをメディアと連携して発信します!事業を多くの人に知ってもらうことで、新たなマッチングとチャンスの場が広がることを目指します。
■関連するWEBサイト
株式会社Vanishing Company
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